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『三国志演義』とは

中国の後漢の後に生じた三国時代について、晋の時代に陳寿(ちんじゅ)という人物が執筆した正史(王朝が認めた正式な歴史書)を『三国志』と言い、これを元にした大衆小説が『三国志演義』です。
『三国志演義』の正式名称は『三国志通俗演義』または『三国演義』と言います。

 

『三国志』の英雄達の話を芸人達が物語るのは唐代後半の頃からあったらしく、それらは当初から劉備(りゅうび)一党を善玉とし、曹操(そうそう)を悪玉とするものであったそうです。
それは陳寿が蜀の出身だから蜀贔屓であったなどと言われますが、実際のところは最弱の蜀が最強の魏を翻弄する様が物語として爽快であること、魏の曹丕(そうひ)が漢王朝に止めを刺し、王位を簒奪したことに由来するでしょう。

 

そういった芸人の演説や講釈が何百年もたって行なわれて、そのうちに簡単な書物が出来、ようやく羅貫中(らかんちゅう)と言う人が長編小説として一つの作品にまとめ上げたのは十五世紀の後半から十六世紀にかけてです。
これは、陳寿の『三国志』が出来てから千二百年も後のことになります。
そして日本に小説『三国志演義』が入ってきたのは、江戸時代の初め頃です。

 

『三国志演義』は『三国志』の大筋を踏襲しつつ、史実七割虚構三割と言われています。
つまり、劉備が死すべきところで生きながらえて三国を統一したりするような、歴史を曲げるような創作はしていません。
しかし、例えば呂蒙(りょもう)は劉備の義弟である関羽(かんう)を死に追いやった為、関羽の霊に取り付かれて、孫権(そんけん)を罵り押し倒すと、全身の穴という穴から血を吹き出し絶命したことになっています。
ところが、正史では彼は病死で、彼が立てた功績に与えられた財産は全て国庫に保管されており、しかも庫役人には「自分が死んだら全て国に返すように」と遺言を残すなど、死後においても国の在りようを心配する忠臣でありました。
(なお、このサイトでは『三国志演義』に基づいて記述していきます。)

 

日本では『三国志演義』を『三国志』と呼ぶことが多く、しかも数多くの作家が題材に創作をしているため、内容のバリエーションも豊富です。
それらは吉川栄治氏作の『吉川三国志』、北方謙三氏作の『北方三国志』などと呼ばれることもあります。

 

このサイトでは、羅貫中の原文に則しつつ、普段『三国志演義』を初めとする中国歴史小説を読み慣れていない方でも読めるように書き下しました。
また、姓、名、字の使い分けについて、例えば「曹操が…」と呼ぶのは本来失礼に当たります。名は重大なものであり、通常は親でもなければ使用しないものだからです。正しくは官職が付けば官職で呼びます。しかし、当サイトでは分かり易さを優先し、世の中に馴染んだ劉備、曹操、孫権などと姓名で記述していきます。

 

それでは前置きが長くなりましたが、魅力的な『三国志演義』の世界へとご招待致します。
あなたが『三国志演義』の素晴らしさに触れるきっかけのになれば幸いです。